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- 2014.07.01 Tuesday
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「真の仏教」得度宝玉への旅とは、
これまでは、「心のふる里」の七識を確認して、無意識の心の世界の
八識(阿頼耶識)と、終点の九識(庵摩耶識)を垣間見る旅をして、
ご自分の心の、三世(過去、現在、未来)の存在を理解して、信仰と、
自分の生命が永遠に輪廻する関係を見てきました。
そして、その過程で、人のみが人の輪廻を断ち切り、信仰の力で「連持心」
を起こして、仏心、即ち「心のふる里」仏界に至り、仏となって(成仏)、
永遠に安住できることを知りました。
ここでは、その成仏への正しい信仰についてお話ししてゆきたいと思います。
仏教は、「因」があって「果」が生ずることが基本の教えとお話し致しましたが、
ここでは「信仰」が「因」で、「成仏」が「果」となります。
故に、「成仏」の道は、正しい「信仰」でなくてはならない訳(理)です。
ここに、「真の仏教」と言う、特別な言い方をしなくてはならない訳があります。
仏教と言う言葉は、一般的に日常で使われ耳にしている言葉で、恐らく多くの方が、
ご自分のご先祖をお参りする仏壇を持ち、お墓を持ち、はたまた、伝来の宗派に
参加されて、熱心なご信者であるなど、「仏教」を知らぬ人はいないと考えられます。
そこで今更「真の仏教」などとは、「ふざけるな」!!「馬鹿にするな」!!
「片腹痛いは」などなど、とお怒りの方も多いはずです。
私もそれを理解しておりますが、曲げて、この「真の仏教」を極める旅に、
ご一緒頂きたいのです。
では、ここから本題の「真の仏教」について、その入口に、ご案内致します。
仏教は、仏の教えですが、この「仏」とは、2500年前に出現された「迹仏」と「本仏」双方の「釈尊」「釈迦牟尼如来」を指します。
この「釈尊」のみが、仏教の「真の仏」です。
現在の仏教界では、「釈尊」の他に、「大日如来、盧舎那仏、阿弥陀仏、薬師如来」等の多くの「仏」が存在して、夫々個々に、「御本尊」となり、信仰の対象となっています。
では、これらの仏とはどの様な仏なのか? を見てみますと、
先に「心のふる里」でお話ししました、釈尊がお説教された、「華厳」「阿含」「方等」「般若」「法華」の五時の教えの内、四時までのその時々にお説になった「方便」=「例えの教え」の、「例え話し」の中で出現する、実存しない「仏の名」なのです。
従いまして、これら「大日如来、盧舎那仏、阿弥陀仏、薬師如来」の「教祖」又は「お導師」として、現世で、如来自らお説きになった教えは存在しないのです。
これで、崇拝の対象となる、真の仏の「御本尊」と、その信仰に関する疑問の一つが解けたと思います。
次に、「真の仏教」についてですが、釈尊のお説教は、その人の「機」(性質や資質)に合わせて、例え話などで分かり
易く教導した、「方便」と呼ばれる「例えでの仏教」があります。
この「方便」に嘘はありません。が、その中には、真の核心は説明されておりません。
例えれば、小学生の教科書の内容に嘘は在りませんが、大学生の教科書の内容はないと同じです。
この様なことから、お説きになる人の資質(機)に合わせて、長い年月に教えられた内容と、その内容のレベル深浅で表した教典も、膨大な数となっています。
故に個人のみで、これら全て読み説くことは、到底不可能でありますので、後に天台大師一門が、その多数のお弟子と共に、長年の年月をかけて体系化されたのが、現在の仏教経典です。
そして、その経典の最上位に、五時八年でお説きになった「法華経」があります。
そこに、釈尊自らが、「仏教」の真理は、「法華経」であると、お話しているのです。
即ち、「真の仏教」とは、先の五時が、釈尊の教えの最後期であり、要「核心」であり、ここで初めて、「仏の真実」と「法」の秘密が明かされたのが「法華経」なのです。
では、この「仏の真実」と「法」とは何のことでしょうか?
それを極、平易にご説明致します。
この違いはどの様なものでしょうか?
元々出家をする基本的な考え方は、汚れた煩悩の今の世界から、ご自身の煩悩を
絶つために、この濁世、即ち現俗世を離れて悟りを開くことの修行でありました。
その為に、俗世との縁を切り、その教えと実践の場であります寺院(宗門)に
入門することを「出家」と言います。
この背景には、宗教社会の歴史的階級制度がありました。
宗教者は歴史的に、上層階級の英才教育の師と言う社会的位置付けから、
為政者の大衆を治める知識や手段として用いられ、それらの、司祭や賢者、
兵法者、預言者は、政治や社会の上層階に位置して、特別存在的立場で
処遇され擁護されていたのです。
仏教も然りで、膨大で難しい経典を学び実践するには、その場所と長い期間が必要であり、それを修めた者は、その門流の権威者として、社会の階級的市民権を得たのです。
この様な仕組みの中、為政者による寺院の建立や格付け、そして権威が醸成され、
尊敬と崇拝を集め、その流れが後に檀家制度となり、信者数の社会的権力として
擁護されて来たのです。
しかし現在では、専ら「寺業」に昇華した形態の形式寺院仏教となり、
出家の歴史的意義も薄れて、伝統的系列仏教となっています。
現在の寺院は、専ら、檀家の仏教行事を行う事業を「寺業」として、成り立って
いますので、檀家は、その出家僧侶に、仏事を委託する形態となり、自らが
学習し実践するなどの苦労をする必要がないわけで、法事の必要があれば、
「寺業」を利用すればよく、宗派には属しますが、自己の宗教を知らない
仮の信者の形態となっています。
故に、その仏教宗派の宗旨や教義内容の学習や実践には殆ど関与せず、
信者と言えない寺業経済を支える檀家であると言えるのです。
このため、檀家の自宅での仏壇お参詣の形態は、在家仏教ではなく、出家寺院の
系列に入ります。
では片や、在家仏教とはどのようなものでしょうか?
では、在家仏教とはどのようなものなのでしょうか?
在家仏教修行とは、自宅において自らが、宗門の教義で修行をする形態を
言います。
これでお分かりのように、在家の場合の信仰は、自らの修行で、即ち、
実践なのです。
その為、自分の崇拝し信仰する対象が明確であり、自分が所属する教団は、
自分が学習と実践するに正に適合の宗旨と教義があり、自分の資質を高め
られる環境があることが、その存在価値となります。
即ち、信者主体の信仰組織環境となるわけです。
ここで、あなたに再度あお尋ねしますが、仏教は、誰のために、また、
何のために存在するのでしょうか?
仏教、そして、心のふる里の「法華経」をお読みになったあなたには、
その答えが既にお有りであると思いますが!!
そうてす。あなたのお感じた通りです。
仏教は、あなた自身の資質を浄化するための教えであり、そして、その究極は、
成仏の「下種」の法玉のご利益を得る為のものです。
そして更に、その実践で得る「下種」の功徳を、自己と自己以外の社会の人々に、
在世成仏できるように広く分け与えて、仏教の大慈悲であります、この地球世界が、
永久に幸せで平和な仏の世界(浄土)の実現を目指して、努めることにあるのです。
その為の信仰が、真の仏教信仰なのです。
故に、「寺院仏教」格式や「寺業」の「式典仏教」の形態とは全く異なる、
自己の完成を目指し、その社会を目指す「在家仏教」こそが、あなたための
真の仏教とその教義であり、「下種の仏教」の形態なのです。
あなたの日常の信仰は、あなたの心と行動の基盤として、日々の生活に活かす
「在家仏教」でなくてはならないのです。
妙顕寺は、日蓮聖人がお亡くなりになる2日前に、以後は、日朗阿闍梨を貫首(師)とし、
日蓮の本化仏教を、天皇に上奏(帝闕奏聞)するお役を、その弟子の日像上人
(当時14歳の経一丸)に遺命をされ、日像上人は、53年の生涯を掛けて、三度も
都を追われるなどの法難を受けながらも、その本化仏教の弘通を続けて、
遂に後醍醐天皇の勅願寺となり、宗祖日蓮宗の遺命を成し遂げたお寺であり、
日連聖人直系の寺格の寺です。この日像上人の偉業から、この流れを「像門」
と言います。
そして日蓮直系の法燈は、日朗、日像、大覚、朗源、そして当時は、日霽で、
その門下に好学第一人者の(好学坊)と称された「日存」と、道徳第一人者の(精進坊)
と称された[日道]がいて、その流れの下で、「深円」は学び、その後、頭角を現して、
坊の称号をもらい、「慶林坊日立」となりますが、その人が後の「日隆上人」です。