スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
- 2014.07.01 Tuesday
- -
- -
- -
- -
- by スポンサードリンク
天台宗も法華経ですが、開祖伝行大師以後、法華経を名乗らず、知名度の天台宗として、朝廷の
絶大な庇護を受け、大衆から恐れられる権力の寺格となっていたのです。
その他にも、日朗門下の日静は、俗縁の足利尊氏の庇護のもとに建立した「本圀寺」もまた、
権力寺と化し、この二大権力下の寺格の法華宗が、隆盛を極めていました。
その天台宗は、日蓮宗の法華宗は正統ではないとして、朝廷に直訴し、朝廷の権力を借りて法華宗の
排除をしようとして、法論争となりましたが、先の日霽上人が、後醍醐天皇から賜った
勅願寺の証、「四海唱導法華宗号」を提示して、その訴えを退けます。
が、妙顕寺も、日霽から遺命を受けて20歳で貫首(宗師)となった、公家出の
「月明」が、派手な衣装と帯刀などの非行と、公家や武家の有力者を味方にする
猟官運動に専念するなど、その地位と背景を活かして「僧正」の勅許を受けますが、
法儀の本流からか外れた紊乱は、寺内の騒動となり、特に若い僧を中心に「像門の本流」
「本化仏教」に戻す動きが、出てきました。
当然ながら、この中の中心に、日隆上人がいたのです。
それに加えて、「本圀寺」の改革を模索する若い僧侶も加わっていました。
当時26歳の日隆僧は、その後、妙顕寺の貫首、月明僧の紊乱に対する問責をしますが、月明僧護衛の
寺侍の暴挙があり、改革の芽が先伸びとなります。
本圀寺の改革僧は本圀寺を離脱して、本門派、日陣の本禅寺に帰属しています。
しかしその4年後に、先の天台宗延暦寺の宗徒が、日枝神社の神輿を押出し、当時の神仏を背にした
神輿振りが、朝廷に対する強訴であり、朝廷は、その神輿振りと神社の下人で最下級犬神人と
呼ぶ暴徒集の暴挙に屈し、法華経の本門寺の妙顕寺を取り壊す破却裁定を下します。
その一年後、全国に布教し帰京した、日隆上人は、檀家で商人の六郎兵衛の支援で、一軒家を得て、
「本応寺」と名して、本門道場とします。