この八幡社地の大道場、本興寺も3年で建立されて、布教弘通に努め、大いに民衆を教化し、現在の敦賀市色が浜では、村一帯に蔓延した疫病を、村人と共にお題目の合唱で平癒し、
その地の曹洞宗の末寺の住職も、この現象に感銘して、法華経に改宗しました。
敦賀を辿る船に同船した、真言宗の有力檀家の紺屋五郎右衛門が、日隆上人の霊験を目の当たり
にした縁で、自分の地の角鹿に請われて、その地を赴き、その地の真言宗大正寺の住持、
円海法印と法論をすることになります。
法印とは、朝廷より頂く僧侶出世の地位で、他教と比べて仏教が真実と言う称号であり、その
僧位は最高位の大僧正を意味します。
この問答は、弘法大師の真言の密教が、釈迦牟尼仏の法華経の顕教に勝るとする顕蜜の論議で、
3日に及び行われましたが、この問答の末に、円海法印は、法華経の宗論に破れたことを認め改宗し、
大正寺を、大勝寺に改め、円海法印を日従の名に改名して、
日従に後事を託して、ここに初めて、
本門法華の道場が開かれたのです。
この様に11歳から、京の妙本寺(妙顕寺)を始めした仏門の経学と弘通に身を投じた日隆上人は、
既に45歳となりましたが、 再建の妙本寺も、この10年で賑わいを取り戻し、従来からの本圀寺
等を含めて、法華経の勢いは可なりのものとなっていました。