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    • 2014.07.01 Tuesday
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    仏教界の偉人 正師 日隆上人

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       仏教信仰の正しい在り方は、在家にある。とお話ししてきましたが、在家信者の歴史的信仰形態を眺め、
      現在の在家信行の在り方を、あなた自身の観点で考えることも大切なことと思います。

      日本の仏教の衰退は、そもそも人間世界の、人間の不完全さと人の煩悩で必然的に生ずるもので、
      仏教に無知の為政者や宗教家などの法敵によって歪められていますが、これもまた、人間のみが持つ
      浄化心が、心の歪みの浄化作用となりますが、その人のと言われる、奥深い心の歪みは、先の「心」で
      お話ししましたように、真の信仰でしか正すことはできないのです。

      日蓮聖人と、その後々の時代も、仏教の盛衰は続くと考えられますが、大切なことは、末法の今の時代は、
      真の仏教で、在家による在世の今でしか、そして、あなたにしかできない、あなたの下種
      (成仏の種)が、そして、あなたの大切な人への真の仏教の伝承が必要であり、最衰退期の末法期は、
      人類の危機、あなた命(仏心)の危機の時代であることの認識が必要なのです。

      悲しいかな!!仏教に縁の無い人にはピンと来ないと思いますが、これは真実なのです。

      法華経を信ずることの難しさは、経典に、「一眼の亀の浮木の穴に値うが如し」即ち、片目の亀が、
      大海に浮いている穴が開いた木片に遭うような奇跡なのだ。と例えています。

      さて、末法時の教祖日蓮宗の歴史で、危機にある、真の仏教を繋いだ正師の一人に、日隆上人がおります。 

      この方は、末法仏教の歴史を塗り替えた仏教中興の祖と言える、末法の仏教界を代表する正師であり、
      偉人の一人です。

      次に、日隆上人を尋ねてみます。



      末法日蓮宗の中興の師 日隆上人

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        先に、正しい仏教と正しい教えは、正しい師の系譜にあると申しましたが、ここで、真の仏教である
        法華経を語る時に、法華経で伝承される、上行菩薩の日蓮上人は、末法時代の真の仏教布教の中核と
        なるお方ですが、日蓮上人の没後100年の南北朝から北朝へ、そして、その後の応仁の乱などの
        乱世の時代に、この法華経の宗祖日蓮聖人の、正しい教えの伝承が揺らぎ、宗祖日蓮宗の本道から
        外れて、乱れ混迷し、日蓮宗のみならず、仏教界全体が形骸化してゆきます。

         この様な時代に、多数の他の日蓮宗を、日蓮聖人が他宗を論破したと同じく、その宗祖の法門で
        日蓮宗派を論破して、再度新たに、宗祖の日蓮宗を掲げた方が、日隆上人なのです。

         故に、この人なくば、現在の末法時(現代)の仏教、日蓮の真の仏教である法華経は、日本国に、
        そして世界に、正しく伝承されなかったのです。

         日隆上人は、現在の富山県荘川の下流域の砺波(となみ)平野にある島と言う集落(越中国射水郡浅井郷)
        に、周りに壕や土塁を巡らせた、浅井城と呼ばれる館がありましたが、土地の人はこの集落の城を、
        当時の風景で、田んぼの海に浮かぶ島、「島の館」と呼び、現在の散居村の一つであったと思われます。
         現在は、富山県射水市島で、現在はお寺で、その名を誕生寺と呼ばれているそうですが、その島の
        館の城主、桃井右馬頭(うまのかみ)尚儀(ひさのり)の次男として、現在から丁度550年前の、至徳2年
        (1385)11月25日に誕生されました。


         つづく

        日隆上人の偉業2

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          日隆上人は12歳で元服してその名をながなお名乗りますが、戦国の城主
          豪勇武将の息子として生まれ、このただれた病の時代と母の病を癒すことが、
          自分が産れてきた定めとし母、とみや、乳母、妙女たえじょの出会い、そして、
          幾つかの超現象的な事象の奇しき縁で、父の許しを得て、修羅道の武士の世界から
          出家し、遠成寺に入り、慶寿院を師とし法号の「深円」を授けられます。

          そこから、末法濁世時(現代)に、日蓮聖人の真の仏教(本化仏教)布教弘通の
          実践を伝承する、苦難の道を歩んでいきます。

          詳細は省きますが、その後、深円は京に上がり、京で最初の法華道場の、妙顕寺
          (妙本寺)に移ります。

          妙顕寺は、日蓮聖人がお亡くなりになる2日前に、以後は、日朗()(じゃ)()貫首(とし、

          日蓮の本化仏教を天皇に上奏((てい)(けつ)(そう)(もん)するお役、その弟子日像上人

          (当時14歳の経一丸)に遺命をされ、日像上人は、53年の生涯を掛けて、三度も

          都を追われるなどの法難を受けながらも、その本化仏教の弘通を続けて、

          遂に後醍醐天皇の勅願寺となり、宗祖日蓮宗の遺命を成し遂げたお寺であり、

          日連聖人直系の寺格の寺です。この日像上人の偉業から、この流れを「像門」

          と言います。

          そして日蓮直系の法燈は、日朗、日像、大覚、朗源、そして当時は、にちせい

          その門下好学第一人者の(好学坊)と称された「日存」と、道徳第一人者の(精進坊)

          と称された[日道]がいて、その流れの下で、「深円」は学び、その頭角を現して、

          坊の称号をもらい、「慶林坊にちりゅう」となりますがの人「日隆上人」す。







          日隆上人と像門の本化仏教

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             NHK大河ドラマ平清盛で、平安時代の白河法皇の意にも背くものに、「加茂川の水、双六の賽、
            そして、山坊師」とありますが、これは、伝行大師の在世で広めた、天台宗延暦寺」の仏権力を
            笠に着て闊歩する兵僧や寺侍達の事です。
             

            天台宗も法華経ですが、開祖伝行大師以後、法華経を名乗らず、知名度の天台宗として、朝廷の

            絶大な庇護を受け、大衆から恐れられる権力の寺格となっていたのです。

             

            その他にも、日朗門下の日静は、俗縁の足利尊氏の庇護のもとに建立した「(ほん)(こく)()」もまた、

            権力寺と化し、この二大権力の寺格法華が、隆盛を極めていました。

             

            その天台宗は、日蓮宗の法華宗は正統ではないとして、朝廷に直訴し、朝廷の権力を借りて法華宗の

            排除をしようとして、法論争となりましたが、先の(にち)(せい)上人が、後醍醐天皇から賜った

            勅願寺の証、「四海唱導法華宗号」を提示して、その訴えを退けます。

             

            が、妙顕寺も、(にち)(せい)から遺命を受けて20歳で貫首(宗師)となった、公家出の

            「月明」が、派手な衣装と帯刀などの非行と、公家や武家の有力者を味方にする

            猟官運動に専念するなど、その地位と背景を活かして「僧正」の勅許を受けますが、

            法儀の本流からか外れた(びん)(らん)、寺内騒動となり、特に若い僧を中心に「像門の本流」

            「本化仏教」に戻す動きが、出てきました。


            当然ながら、この中の中心に、日隆上人がいたのです。


            それに加えて、「(ほん)(こく)()」の改革を模索する若い僧侶も加わっていました。 


            当時26歳の日隆僧は、その後、妙顕寺の貫首、月明僧の紊乱に対する問責をしますが、月明僧護衛の

            寺侍の暴挙があり、改革の芽が先伸びとなります。


            )(こく)()の改革僧(ほん)(こく)()を離脱して、本日陣の本禅寺に帰属しています

             

            しかしその4年後に、先の天台宗延暦寺の宗徒が、日枝神社の神輿を押出し、当時の神仏を背にした

            神輿振りが、朝廷に対する強訴であり、朝廷は、その神輿振りと神社の下人で最下級(いぬ)()(にん)

            呼ぶ暴徒暴挙に屈し法華経の本寺の妙顕寺取り壊破却裁定を下します。

             

            その一年後、全国に布教し帰京した、日隆上人は、檀家で商人の六郎兵衛の支援で、一軒家を得て、

            (ほん)(のお)()」と名して、本門道場とします。

             


            日隆上人暗殺から逃れる

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               その後、妙顕寺(妙本寺)の再興がなり、月明僧を法華宗振興の要と期待して、日存、日道、そして
              日朗の各上人が、妙顕寺の隆盛に力を注いたが、月明の資質は変わらず、逆に日隆上人の暗殺を謀る
              ありさまで、日隆上人は、また、刺客を逃れて、河内の三井村(現在の大阪府寝屋川市)に移ります。

               三井村では、天台宗本法寺の貫首、円澄法印を教化するなど、一村丸ごと本門法華の信者にし、

              その後も、阪神尼崎辰巳の豪商、二郎五郎の要請を受けて尼崎に赴き、二郎五郎のその家を道場に頂き、

              その地の布教をするが、その国の守護、細川満元の男子出産の願いが縁で、満元夫妻が信者となり、

              経力、仏力、信力が冥合して、無事男子を出産し、そのお礼として、八幡社の広大な地を、道場

              建立の寺地に贈られたのです。


               因みに、八幡大菩薩は、法華経の守護神で、先に記しました、日隆上人の父と母が、共に、出産に

              関わる夢で、超常現象を見ていますが、その時の夢と持合する、剣と一寸の張(区切りとする垂れ絹)、

              とその模様が、八幡社の宮司を補佐する者)の言で、当時、八幡社から消滅した

              不思議な事象と符合したため、当事者の日隆上人も大変な驚きであったと言われます。



              日隆上人「四帖抄」を全国寺院に回達し形式仏教を正す

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                今日は、東日本大震災で2万人もの尊いお命が失われた日であり、
                ご親族の方に改めて深い悲しみが満ちていることとお察しします。
                心よりご冥福をお祈り致します。


                さて、尼崎の本興寺に本寺を構えていた日隆上人は、日隆上人らが月明僧の
                妙本寺を離脱した後に、月明僧によって廃寺とされた本応寺について、
                初期の恩師でありました、日存と日道の両師への報恩として再興したいと
                考えていました。


                この願いに、先に記した、尼崎辰巳の豪商、米屋二郎五郎の縁で、京の有力な
                町衆である小袖屋宗句が、その願いを引き受けることとなり、廃寺同然の
                「内野の草庵」を拠点として、その再興が決まり、改修進めて念願の「本応寺」
                を再興させました。


                この念願を果たした日隆上人は京に移り、京の拠点「本応寺」で、本格的に
                正統日蓮宗の布教弘通の攻勢を開始します。


                その後4年を経て隆盛へ向かっている折に、名門貴族出身と言わる、如意王丸と
                言う人が、現在の109m(1町歩)四方の広大な土地の寄贈があり、そこに全国から
                の浄財で大道場が建造することができ、従来の「本応寺」名を改めて、新たに、
                「本能寺」の名で、本門八品(ほん)の大道場が誕生します。


                この本能寺は、後に織田信長が明智光秀に殺害された寺院です。


                日隆上人はここで、宗祖日蓮の宗義を「四帖抄」にまとめ、同じ法華宗であっても、
                像法時代の天台宗の「迹門の法行観」と、末法時代の日蓮宗の「本門の信行観」
                との違いと、宗祖の「開目抄」と「観心本尊抄」のご法門(御書)の意が、本門の
                肝心「八品所顕の南無妙法蓮華経の御題目」の末法弘通にあること、法華経の宗義と
                他宗他派との宗義に、実教と権教の明確な相違があることを記したその「四帖抄」を
                公開して、京の洛中の他派と諸本山を始め、全国の日蓮宗門へ、宗祖日蓮聖人の
                宗義に戻るよう回達したのです。


                以後、日隆上人の宗派を他の日蓮宗と区別して、「八品門流」と呼びます。


                しかしこの回達も残念乍、その法論の理解が出来なかったり、その法論を認めた
                としても、当時の本山の寺格権威や師の面子、政治や社会的特権などから、他宗の
                総本山は、「八品門流」に帰依することはありませんでした。


                ただ、全国の諸末寺の僧や他宗から離脱した僧は、多数に及んだと言われます。


                その後日隆上人は後世に、末法仏教(八品門流)の正師育成を期して、尼崎本興寺に
                観学院を創設します。


                現在の興隆学林(学校)を開校して、自門や他門に拘わらず宗内を学僧に開放して
                教学し、多くの英才僧を育てました。


                これは歴史的な末法仏教(真の仏教)の、正師育成の末代までの偉業となりました。



                日蓮聖人の宗旨 日蓮宗八品門流

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                   さて、ここでのご紹介はそのほんの一部ですが、この様に日隆上人は、幾多の
                  苦難を乗越え、遂に、正師日蓮聖人の宗旨と離脱した、他の多勢の日蓮宗の誤った
                  法儀を打破し、正して、宗祖日蓮宗の真の仏教を継承する日蓮宗八品門流」を
                  現在に残したのです。

                                                    

                  「一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経と名づくなり」「聖愚問答抄」

                  あなたも持つています、あなたの仏性を呼び覚ますのが「八品所顕の御題目の

                  南無妙法蓮華経」なのです。

                   

                  この例えのお話しですが、ある土地で出来たある果物が、あなたに必須の全ての

                  成分が含まれているとします。

                   

                  もし、他の土地で出来たその名同じの果物があったとして、その果物にあなたに

                  必須の成分が欠落している場合、あなたはどちらの果物を選びますか?

                   

                  薬でも同じです。あなたに必須の成分が含まれている薬と、あなたには不必要な

                  成分が多種多量に含まれている薬がある場合に、あなたはどちらの薬を選びますか?

                   

                  その答えは明白ですね。

                   

                  口唱するお題目が同じであっても、その法能は全く異なります。

                   

                  それは、「南無妙法蓮華経」の口唱が、天台宗でも、他の日蓮宗でも同じであり、

                  どの宗派も我宗が正しいとする中では、一般に、誰しもがその見分けはつきませんし、

                  日蓮宗の同じく口唱する「南無妙法蓮華経」の正否の見分けもできないのが、現在の

                  仏教なのです。

                   

                  その故に、日隆上人は、末法の御題目の名を、他宗と分けて、「成仏」の法能がある「

                  本門八品所顕上行所伝の南無妙法蓮華経」としたのです。

                   

                  即ち、口唱「お題目」が同じであっても、その法能が全く異ない信仰に価値はなく、

                  あなたに真の価値のある宗派が、あなたに正しい必須の仏教宗派であり、信仰なのです。

                   

                  正しい信仰だからこそ、その誇りと、真剣な信仰の絆が保たれるのです。

                   

                  結び


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